主に旅について、それから色々
今日は、現在の日本において「最大のタブー」の一つとされているテーマについて、あえて踏み込んで書きたいと思います。それは、日本の核武装論議についてです。
「核」という言葉が出た瞬間に思考を停止させたり、議論そのものを不謹慎だと断じたりする風潮が根強くあります。しかし、私たちは今、「理想」だけで国を守れるほど穏やかな世界に住んでいるのでしょうか?
かつてウクライナは、ソ連崩壊時に世界第3位の核保有国でした。しかし、1994年の「ブダペスト覚書」により、米露英からの安全保障の見返りとして核を完全に放棄しました。
その結果はどうなったでしょうか。
現在のウクライナの惨状を目の当たりにして、私たちが学ぶべき教訓は明白です。「核による抑止力を持たない国が、核保有国の侵略を受けた際、国際社会の『約束』は必ずしも領土を守り抜く担保にはならない」という残酷な現実です。
もしウクライナが核を保持し続けていたら、歴史は変わっていたのではないか。この問いは、決して無視できるものではありません。
翻って、日本の現状はどうでしょうか。
日本は、強力な核武装を進め、かつ現状変更を辞さない姿勢を見せる国々に完全に包囲されています。これほど過酷な地政学的リスクを抱えている国は、世界でも稀です。
核兵器は、確かに「持っても使えない兵器」かもしれません。しかし、その本質は「使うこと」ではなく、「相手に使わせない、あるいは侵略を思いとどまらせる」ための究極の自衛手段、すなわち「存立維持」のためのカードです。
「使わないであろうから持たなくてよい」のではなく、「他国に舐められ、国家の存立を脅かされないために、抑止力として検討する」。これは、国民の生命を守る責任がある国家として、当然の思考プロセスではないでしょうか。
私が最も憤りを感じるのは、こうした国家の根幹に関わる議論そのものを「不謹慎」として封殺しようとする動きです。
政治家や有識者が、万が一の事態を想定して核武装の可能性に言及した際、メディアがその揚げ足を取り、社会的に抹殺しようとする風潮があります。特に、信頼関係を前提とした「オフレコ(非公式)」の場での発言を、センセーショナルに報じて議論を潰すような行為は、言語道断です。
健全な民主主義国家であれば、どのような選択肢であっても、テーブルの上に乗せてオープンに議論すべきです。議論を封じることは、思考停止を招き、結果として国を危うくすることに他なりません。
核武装を推奨するかどうか以前に、「核武装を選択肢として議論することさえ許されない」という空気そのものが、日本の安全保障における最大の脆弱性ではないでしょうか。
周辺国の脅威が現実のものとなり、従来の国際秩序が崩れつつある今、私たちは目を逸らさずに現実を直視しなければなりません。自衛のために何が必要なのか。国家の存立を維持するために何をなすべきか。
私たちは今、感情論を捨て、冷徹なリアリズムに基づいた議論を始めるべき時が来ています。
このデリケートな問題について、皆さんはどうお考えでしょうか?
平和を望む日本人として、平和は黙っていても得られるものでは無いという事を知ってもらいたいと思います。
私の好きな旅行だって、日本が存立し、平和が維持されていないとできないのですから。
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